山口さんのモロッコ紀行−23

1999-Oct

●値段交渉修行の道3(銀器屋編)

 午後に訪れたのは、銀器屋だった。銀器屋といって
も金製品も扱っている。なんとこの店の現主人の祖父
は、先程見た王宮の金ピカの門を作った人間国宝だっ
たお方だそうだ。10畳ほどの店内の壁一面に造られ
た棚には、金や銀のティーセット、盆、灰皿、壷、動
物の人形、その他諸々が所狭しと並んでいた。
 まずは制作課程を見せてもらった。椅子の前に立っ
たバットのような棒が作業台。その上に直径1m位の
金色の円形の板を載せ、作業台に当たる部分に釘を当
て、それをノミでとんとんと打って模様をつけていく。
円盤には下絵が無く、デザインは全て頭の中なのだと
いう。正確で手早い作業はまさに神業、さすが人間国
宝・・・の孫、である。
 彼の後ろには直径1m以上のお盆がいくつかかかっ
ていた。一つは人間国宝の作品、その他は父や自分の
作品ということだったが、どれも大変精巧で目を見張
る出来映えだった。どうやらここは、本当に本物を揃
えた店らしい。「今日買ってくれた人は、あなたのイ
ニシャルを彫ります」という、国宝級のお方からとは
思えぬ気安い提案を頂くと、次は買い物タイムとなっ
た。
 店内を一回りし、やはり品物相応の価格だなあと思
いながら小物売り場まで来たとき、目にとまったもの
があった。この腕輪、さっき街中で売りつけられたの
と同じじゃないだろうか。
 1分ほどじっと見つめ、さっき買ったのをこっそり
鞄から出してもう一度見比べ、さらに隣の人を捉まえ
て二人で確認した。どう見ても品物は同じだ。だが、
それならこの値札は一体何だ? 
 そこには、「450」と書いてあった。
 円表示はありえない。ディラハムにしても、さっき
買ったのは3コ50DH=1コ17DH(本当は一コ
10DHのはずだったのだが)。増してやドル表示で
は絶対ないだろう。
 さっきの買い物は、実はとてもお買い得だったのか
も知れない。外見からはありえそうにないが、万一買
ったのがメッキでこちらが純銀だとしても、銀愛好家
でないわたしにはあまり問題ない。腕輪を買ってから
少しわだかまっていた気持ちは、ここですっかり晴れ
た。
 同時に、本物ばかりの店と思っていたのに、こんな
ささやかな落とし穴がありえるのか、と改めて思い知
った。モロッコ、何と油断のならない国だろうか。常
に脳が活性化されて、ボケ防止には大変効果的かも知
れない。

 ※値段交渉の教訓3

  何あれど
      スークが一番
            安物買い



●宵口のお散歩

 夕食前、何人か連れだってホテルの周りの見物に出
かけた。ホテルは新市街にあったため、2ブロックも
歩くとゆったりした4車線の大通りに出る。
 昨晩は閑古鳥が鳴いていたのが嘘のように、宵の口
の街の人出はすざまじかった。盆・暮れの東京駅並に、
歩道は人、人、人の大洪水。人々の服装はスークとは
様相ががらりと異なり、ポロシャツにジーンズといっ
たカジュアルな洋服が中心だ。車道にまで溢れた人の
波にも負けず、沢山の車が右へ左へ行き交っている。
 街の様子はフランスの統治時代を偲ばせ、アラブ風
シャンゼリゼといった様相だった。
 その最たる例が、道の両側にたくさん並んだオープ
ンカフェだろう。ただし、パリや青山のものとはかな
り様相が違った。多目に並べられた席は見事に満席な
のだが、座っているのは男性ばかり。イスラム教の国
でアルコールは基本的に駄目なはずだが、おじさんば
かり4、5人で、やけに盛り上がっている。男ばかり
がミントティーを飲みつつ「養老の滝」以上の盛り上
がりを見せるオープンカフェ、遂に入る勇気は出ずじ
まいだった。
 並ぶ店も都会風だった。
 大人気だったのはビックサイズのホットドック屋。
ショーケースの中から具を選ぶと焼いてもらえるスタ
イルだ。男も女もあごが外れるくらい口を空けて頬張
っていて、かなりおいしそうだった。晩御飯がなけれ
ば食べたのに、残念である。
 土産物屋では、一風変わった絵はがきを見つけた。
名付けて「ハーレクインの絵付き12星座占い絵はが
き」。ドラマチックな男女の姿と妙にリアルなヤギや
サソリの組合わさった図柄に、運勢らしきアラビア語
の文章がめんめんと書かれている。あの図案から察す
るにかなり面白いことが書いてあったと思うのだが、
内容が全然理解できなかったのは誠に残念である。
 駄菓子屋で会社用のクッキーを買い、店員の少年と
写真を撮ると、人混みをかき分けてホテルに帰ったの
だった。
 なお、この日の夜は、希望者のみでベリーダンスシ
ョーのオプショナルツアーが催行された。わたしは行
かなかったので翌朝様子を尋ねると、妖艶美女の踊り
や大道芸人の業の数々が披露され、なかなか見応えが
あったという。だが、中でも最も印象に残ったのは、
ベリーダンスに見入っているムスタファ氏の姿だった
そうだ。
「もう、かけ声とかあげちゃって大喜びだったわ」
 なるほど、道理で今朝は機嫌が良さそうなわけか。
昨日のガラス激突の疲れもすっかりとれたようで良か
った、良かった。このツアーのお守りも残すところ後
1日。この日は、彼が今までで最も明るい表情で現れ
た朝であった。



●エメラルドの液体

 ツアー8日目。9日目、10日目は帰国の移動時間
なので、観光は今日が最後だ。心なしか皆ほっとした
ような表情がうかがえる。今日もカサブランカへ向け
てのドライブが中心で、途中、観光と御当地名物ショ
ッピングに立ち寄る予定となっている。
 出発して焼く1時間あまり。広々としたなだらかな
丘陵地を走っていたバスが、大きなガレージのある農
家の前に停まった。ガソリン給油かトイレ休憩かと思
ったら、サンタ氏が告げた。
「はい皆さん、ここがオリーブ油直売店です。買いた
い方は、先日言っておいたとおり、入れ物を用意して
降りて下さい」
 ここは、オリーブ油の中でも最高級の「エキストラ
バージンオリーブオイル」の直売店である。何と日本
の1/10の値段で買えるということで、人によって
は前々から大変楽しみにしていたところだ。外観はま
る目立たぬ普通の農家で、そうと知らないと絶対に見
逃すに違いない。周りは一面のオリーブ畑で、黒や緑
の丸い実が、枝にたわわになっている。ペットボトル
を片手にした一行は、ぞろぞろガレージのほうへと移
動した。
 薄暗いガレージの内部には、オリーブ油精製機らし
い大きな機械がいくつか並んでいた。入り口近くにあ
る高さ2m、直径1.5m程のタンクに出来上がった
オリーブ油が貯蔵されている。床近くのコックを開き、
各自持参した入れ物にオリーブ油を満たして量り売り
をするというしくみである。
 一人がペットボトルをおじさんに渡し、おじさんが
コックを開いた。すると、とろりとしたエメラルド色
の液体が、みるみるペットボトルの中に流れ落ちた。
入り口から差し込む光に照らされた細かな無数の泡が、
ゆっくりと液体の中を回っている。さすがはできたて
の最高級品の輝き、それだけでも一種の芸術作品のよ
うだ。
 入れ物がいっぱいになると、おじさんは慣れた手つ
きでコックを締め、品物を渡して代金を受け取り、胸
ポケットに突っ込んだ。手は当然油まみれ。この作業
を見ながら、なるほど、あの恐ろしく汚い20DH札
はこうして生まれるのか、と妙なところに感心させら
れた。
 それにしても、いかに安いとはいえ、みんな買う量
がハンパではない。2l、3l買う人も少なくなかっ
た。化粧水とか染物とか、何か大量に使う用途でもあ
るのだろうか。
「そんなに、何に使うんですか?」
「ああそりゃ、イタリア料理なら何でも使えるでしょ。
パスタにかけたりとか、サラダのドレッシングとか」
 3lを消費するまでに、一体何皿のスパゲティとサ
ラダを食べねばならぬのだろうか。毎日自炊でイタ飯
尽くしにしても数ヶ月は固い。ましてや現在の自分の
生活では、三生分にもまだ余る。あーあ、料理への情
熱が湧かないのも電気コンロが二個しかない狭い台所
のせいであり、ひいてはそんな社宅しか割り振ってく
れなかった会社のせいであり、とどのつまりはそんな
会社に就職してしまったということは・・・自分のせ
いか?
 遠方まで連なる無数の丘に秋の陽が静かに降り注ぎ、
涼しい風がオリーブの葉を鳴らすこののどかな光景に、
そんな物思いはふさわしくなかった。脱毛症になるか
ら深く考えるのはよそう。
 日本円にして全員で何十万円分かのオリーブ油を買
い込むと、バスは再び出発した。なお、サンタ氏の言
だと、普通の観光ツアーではこの直売店には寄らない
らしい。なぜわれわれだけ寄ったのかは不明だが、あ
のタンクを丸ごと買いつけたら、結構良い商売になる
に違いない。興味がある方は、フェズからメクネスへ
ドライブして、路傍の農家を片っ端から当たってみよ
う。「畑の中の一軒屋」を目印に。


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