山口さんのモロッコ紀行−19

1999-Oct

●他人のタジン

 昼過ぎ、バスはトドラ峡谷に到着した。ここも「ア
ラビアのロレンス」のロケ地になったところである。
 トドラ峡谷は「モロッコのグランドキャニオン」
と呼ばれる景勝地で、カスバ街道沿いのオアシスの町、
ティネリールの北西に位置している。
 谷間の幅は50m余り、その中央部を流れる浅い川
の水は、雨の影響も無く澄んでいた。川の両側は、高
さ200mの赤みがかった岩の垂直な崖だ。見上げる
と、のしかかってくるような圧倒的な威圧感がある。
恵比寿ガーデンプレイスの展望レストランが地上16
7mだといえば、その高さが想像できるだろう。恵比
寿も知らない人は、御近所の高いビルに上ってみるべ
し。
 なお、名だたる絶壁の常で、ここはロッククライミ
ングの名所だそうだ。到着した時にも何名かがヤモリ
のようにへばりついているのが見えた。帰る時にはい
なくなっていたが、救急車が来た様子は無かったので、
大方無事登るか下りるかできたのであろう。
 昼食を摂ったのは、崖際を背に建てられたレストラ
ンだった。ここで初めて食べたモロッコ名物料理が、
「タジン」だ。
 タジンの第一の特徴は器である。浅目の丸い土鍋と、
鍋の直径と同程度の高さの円錐計の蓋がセットになっ
ている。料理は蓋付きのまま運ばれてきて、テーブル
で「それっ」と蓋を上げるわけだ。
 料理は煮込みの一種。鍋に肉か魚介を一種類と野菜
を数種類入れてスープを注ぎ、蓋をして煮込む。この
日はミートボールのタジンだったが、仕上げに落とし
た卵が半熟状になっていて、見た目も味もなかなかだ
った。
 テーブル毎に1つの鍋の料理を取り分けたのだが、
タジンはやはり人気で、どのテーブルでもおかわり注
文が出た。なお、この旅行中おかわりは自由だった。
気前のいいことである。
 ところで、そのおかわり注文はわたしのテーブルが
最後だった。すると、他のテーブルはすぐにおかわり
が来たのだが、うちだけはいつまでたっても出て来な
い。作り置きが丁度1つ手前で切れてしまったらしい。
1テーブルだけ寂しく待つ間、周りでみんなが食べて
いるおかわりタジンは、一杯目よりもずっとおいしそ
うに見えた。
 やがて他のテーブルにはデザートのブドウが運ばれ
てきた。一方、ここはタジンもまだ。この頃には、待
ちわびてタジンへの情熱が減退してきた。だが、まだ
腹7分なので、何でもいいからもう少し食べたい。わ
れわれは終にタジンを諦め、ウェイターに言った。
「タジンはもういいので、デザートを下さい」
「どうして。もうできるよ」
「でももうお腹一杯なので」
「でも、タジン、おいしかったでしょ」
「はい、それはもう」
「じゃあ大丈夫。まあ待っていなさい」
「いや、本当にもういいんです。果物を是非」
「まあまあそう言わんと。すぐ来るすぐ来る」
 どうしてもブドウも持ってきてくれない。
 かと言って、あまりのんびりしてはいられなかった。
出発時間が時間が決まっているので、早く昼食を終え
ねば自由散策時間が無くなってしまうからである。
 そこで第二の妥協をし、果物も諦めた。仕方ない、
ちょっとひもじいが「時は金なり」。散策時間が惜し
いしなあ。そう決意して席を立つと、ウェイターに止
められた。
「どうした。もうおかわりが来るよ」
「いや、わたしはもういいです」 
「まあ待て、もうちょっとだから」
「いやあ、外を見に行きたいので」
「いやまあ待て。まだデザートを食べていないでしょ。
持ってくるから、まずは食べなさいって」
 結局、強引に席に戻されてしまった。
 嗚呼、ちょっと外に出たいだけなのに、どうしてこ
うなってしまったのか。幸いブドウはすぐ運ばれてき
たので、5、6粒つまむとほうほうの体で脱出した。
 それにしても、何と勧め熱心なウェイターだろうか。
彼の情熱には全く脱帽である。今日、今も、きっ
と誰かに「まあ待て待て」と微笑みかけていることで
あろう。



●口難の日

 この日の大半はバスでの移動だった。ツアー客の大
多数の一般常識は「バス移動時間=睡眠時間」だった
のだが、これはサンタ氏にとって大いなる不満のタネ
だった。彼は毎日、皮肉じりのグチをこぼしていた。
「皆さん、わたしの話を聞くよりも寝る方がいいよう
ですなあ」
 だが、この発言に関しては、反論の余地が3つはあ
るとわたしは思った。

1.「お客さま」は、添乗員の話を聞くよう強要され
  るべき立場ではない。
2.サンタ氏は客の反応に全く留意せずひたすら前を
  向いて喋っており、なおかつ話の9割がスペイン
  史の話か自分自身の話である(面白い話も中には
  あったが)。 
3.少なくともわたしはずっと起きていて全部聞いて
  いる。

 カスバ街道沿いには山あり川あり渓谷あり、雄大な
景色が次々現れて決して見飽きることはなかった。時
折通り過ぎる村で、岩場に直接衣類を置いて洗濯物を
干している様子なども、実に面白い。景色を見ながら
起きている数少ない聴き手の特権で、折角だから間近
で話を聞こうと思い、この日わたしは前から2番目の
サンタ氏のすぐ後ろに座った。
 やがていつものように乗客は居眠りを始め、サンタ
氏は言った。
「じゃあ、みなさんスペインの歴史の話だと眠くなる
みたいですので、添乗員業界の裏話でもしますか」
 おいおいおーい、はるばるモロッコまで来て、この
壮大なパノラマを見ながら聞く話が、どうして「添乗
員業界裏話」になるんだよう!
 神経細胞のどこかが切れ、思わず手があがった。
「・・・というわけで、最近の試験の傾向はといいま
すとおー」
「Sさんっ!あの川は何て言うんです?」
「学生も・・・ん、あれはワルザザード川です。学生
の受験者も増えて、ああいう若い素人添乗員が増える
のは、この業界にとっては実に・・・」
「Sさん!あの地層すごいですねえ。いつ頃の地層な
んです?」
「嘆かわしい・・・ん、さあね。ムスタファ、ペラペ
ラ・・・氷河期だそうです。どこまで話したかな、そ
う、素人添乗員が増えて、わたしみたいなベテラン添
乗員の割合が減ってきたのは誠に残念な・・・」
「あの地層、何岩なんでしょう?」
「ことだと・・・ん、さあねえ。ただの岩でしょう。
ムスタファ、ペラペラ・・・分からないそうです。あ
あもう、どこまで話したか分からなくなっちゃいまし
たよ。わたしの話、聞かなくていいんですか」
「い、いやあ、折角のいい景色なんで、解説して頂け
たらと思いまして」
 これは全くの本心であった。
「さあ、わたしも知らないんでねえ。じゃ、誰も聞い
ている人がいないみたいだし、添乗員の話はもうやめ
ます」
 話を切って悪かったという罪悪感は、もう無駄話を
聞かなくてすむという暖かい小春日和のような安堵感
の前に、初霜のごとく消え去ってしまった。だが待て、
添乗員裏話を聞きたがっている人が実はいるかも知れ
ない。そう思って念のためバス後方を見渡したが、こ
の一幕に注意を向けている人はいなかった。まあいい
か。わたしは心の中で謝った。申し訳ない、添乗員裏
話の続きを聞きたい人は、後でサンタ氏に直接交渉し
て下さいませよ。あのまま話が続いていたら、それま
では空想内に留まっていた空手チョップが、現実のも
のとなりかねなかったので。
 間もなくサンタ氏も睡眠体制に入ったので、質問は
ムスタファ氏に直接聞くことにした。初めはおそるお
そる声をかけてもなかなか通じないという感じだった
が、途中からはムスタファ氏の方から「あれは××山」
というように教えてくれるようになった。これは大変
嬉しかった。ムスタファ氏、なかなかいい人だ。
 こうして平穏な時間がしばらく過ぎた後、不意に前
の席のいびきが止んだ。サンタ氏のお目覚めである。
 目的地はまだ遠く客は睡眠中と見るや、彼はムスタ
ファ氏と世間話を始めた。すぐ前なので会話が耳に入
ってくる。別段内緒話でもなさそうだったので、暇つ
ぶしに聞くともなしに聞いていた。
 が、サンタ氏のこの質問には度肝を抜かれた。
「どうしてあなたはアラーを信じているのか」
 ひゃー、旅での暇つぶしにイスラム教徒にそんな質
問をしていいのか? しかもこの真面目なムスタファ
氏相手に。爆弾発言だあ〜あ。
 さりげないふりを装いつつどうなることかと聞き耳
を立てていたが、その必要は無かった。いつも冷静な
ムスタファ氏の語り口は段々熱くなる一方。特に耳を
そばだてなくても聞こえたからである。
 聞こえた範囲では、大体こんなことを言っていた。
「初め世界は混沌だった。神は土塊(つちくれにも種
類があるらしい)から人間を造った。天使と悪魔が現
れた。悪魔は蛇を人間に差し向けた。蛇にそそのかさ
れた人間は、リンゴを食べて堕落した。アラーを信じ
てこそ救われるのだ」
 身振り入りの手振り入り、体を前に乗り出して、あ
のサンタ氏に口を挿む隙も与えない語りっぷり。さす
がは身に付いた宗教だ。
 最後には正面からサンタ氏に詰め寄った。
「どうして、あなたは、アラーを信じないんだ?」
 それに対するサンタ氏の、しどろもどろの短い返答
の内容は定かではない。が、その後二人の間に広がっ
た冷やかな霧のような沈黙は、エルフードに着くまで
の短くはない時間、消えることなく漂っていた。
 日もとっぷり暮れた頃、バスはエルフードの街に到
着した。
「ホテルの外の客引きにはついて行かないように。一
度捕まったら、終いには身ぐるみ剥がされます。その
時は自分の責任ですよ」
 あたかもエルフードはホテルだけが安全地帯の犯罪
都市であるかのような口振りに、わたしはすっかりび
びってしまった。だがそれでも外に出た勇者がいた。
彼らの話だと、親切な地元民に近所の日本人経営の小
料理屋を教えてもらいすらしたそうだ。要は、用心が
肝要ということである。
 ホテルの外には出なかったが、夕食後に空を見上げ
ると、漆色の空には星が出ていた。明日の「サハラ朝
日見物ツアー」は大丈夫だろう。僻地ということで心
配されたシャワーのお湯も無事出た。
 明朝の3時起きに備えて早めに布団に入ってから、
昼間のサンタ氏の珍しくたじろいだ様子が浮かんだ。
吾知らず、にやっと思い出し笑いをしつつ、その日は
眠りについたのだった。



●世界の車窓から・カスバ街道

 話は戻るが、カスバ街道を西進してエルフードに辿
り着くまでの長い道のりの途中には、いくつか心に残
る出来事があった。
 まずは、山間部の小村を通り過ぎたときのこと。岩
の上に衣類が散乱している。洗濯物が風で飛んだにし
てはどうも不自然だった。散らばり方が等間隔で重な
っていないし、しわが無いように延ばしてあるのだ。
これはどうやら洗濯物を干しているらしい。「洗い物
が地面に落ちてしまったからもう一度洗濯」という考
え方は、ここでは通用しないようだ。
 だが、多少の汚れを気にせず、かつ場所さえあれば、
このダイナミックな方法はなかなかいいと思う。干し
やすく、たたみやすく、陽が当たりやすい。定年後に
家事修行を始めた男性には、「洗濯初級編・その1」
の課題として最適であろう。
 次に、川沿いの道を走っていたときのこと。それま
でエンジン全開で飛ばしていたバスが、なぜか急にス
ピードを落とし、ついには停まった。信号があるわけ
でもなし、人がいるわけでもなし、一体どうしたこと
か? 前方に視線を向けると、そこにはあるべきもの
が無かった。
 道がない!
 雨の少ないこの辺りでは、橋というものがない。川
と道路が交差する所では道路が少し低くなっていて、
通行するときは浅瀬を渡って行くようになっているの
だ。アイト・ベン・ハドゥで涙を飲んだのもそのため
である。そしてここでも、昨日の雨はいつものせせら
ぎを幅20m、深さ80cm余りのご立派な川に成長
させていたのだった。
 どちらかといえば道路は高くなっており、道の両側
は沼のような状態。迂回路は無い。
 昨日は観光し損ねるくらいですんだが、今日は目的
地に着くこともできないのか? 今日はバスで夜明か
しか? 今後の日程はどうなるのか? この僻地でヘ
リコプターのチャーターなどは望むべくもないが、も
し頼めたとしたらいつ来るのか? 余りにも予想外の
展開に、疑問ばかりが溢れて出て答えは一向に見つか
らなかった。
 運転手・ウィーダット氏が一度バスを降りて川の様
子を見に行った。異常事態を察したのか、それまで寝
ていた乗客もみな目を覚ました。バス内にかつてなか
った緊張感が広がる。
 やがてウィーダット氏は戻って来ると、ギアを入れ
エンジンをかけた。強行突破で意を決したのである。
旅の無事を願う80人の切なる祈りはダイヤモンドの
如く硬い一つの結晶となり、選ばれた勇者にその希望
のダイヤは託された。
「進め、ウィーダットさん!
 20m先の未来に向かって!!」
 川幅の3分の1位まで来たところで、エンジン音が
変わった。モーターが上ずって空回りしているような
異常な響きである。だがそれでも、年老いたカバのよ
うにゆっくりとバスは前進を続けていく。乗客達は、
バスが作る波紋と近づきつつある向こう岸とを、代わ
る代わる固唾を飲んで見守った。
 不意にエンジン音が変わった。腹の底に響くような
懐かしい音。天晴お見事、渡りきったのである! し
ばらくの間、乗客からは惜しみない拍手と賞賛と感謝
の言葉がウィーダット氏に送られたのだった。
 そこから1、2分走ったところで、1台の小型ワゴ
ン車が停まっているのに遭遇した。10人位のツアー
らしい。あの水たまり越えでエンジンが故障してしま
い、通りすがりの車に救援してもらうのを待っていた
のである。
 ウイーダット氏が話をし、このバスは満員の観光バ
スだから乗せていくことはできないが、すれ違った車
か行き着いた街で助けを頼んであげるということにな
った。こちらは大型バスで車高があったのが救いだっ
た。もう少し川が深ければ、我々も同じ運命だったは
ずである。彼らの幸運と無事を祈りつつ、バスは先へ
と進んだ
 その後、エンジントラブルを起こすことも無く、し
ばらく平穏なドライブが続いた。エルフードに近づく
につれ、車窓の景色は見渡す限り真っ平らな礫砂漠(
石混じりの砂漠)となった。地平線の辺りにうっすら
と山脈が見える。
 いや、平地ばかりでもないか。何だこれは?
 道路沿いに、高さ2m位の砂山が作られている。そ
れも10個や20個ではない。山の存在に気付いてか
らかれこれ数十分は経ったが、山はまだ延々と連なっ
ている。自然現象の一種だろうか。どんなしくみでで
きるのだろう。
「Sさん、あの山は何です?」
「ああ、あれは水路トンネルですよ。水のあるところ
から街まで、ずーっと水をひいてくるわけです。トン
ネルを掘った時の土が、ああやって山になっているん
ですよ。どら、ちょっと下りて見てみましょうか」
 かくして急遽トンネル見物休憩の時間が持たれた。
山の中央には直径約2mの穴があり、そこから水路を
覗き込める。穴の深さは約5m、トンネルの直径は3
m位、水深は膝丈位だろうか。落ちたら自力でよじ登
るのはまず無理だ。墜落防止壁などはもちろん無い。
 足場の良くない穴の淵から水路を覗き込むと、さす
がに少々怖かった。が、穴のそばで子供達がサッカー
をしているのを見るのは、それよりはるかに恐かった。
子供はともかく、穴に消えるボールの数は年に10個
は下らないだろう。
 休憩中のバスを、後方から走ってきた大型トラック
が抜いて行った。その後姿を見送った時、
「おっ、あれは」
 思いがけぬ再会に、何人かが声を上げた。トラック
の後ろに牽引されているのは、先程エンストしていた
小型ワゴンだったのである。牽引車があるとは思えぬ
スピードで、トラックは力強く走り去った。これで、
先程見捨ててしまった後ろめたさを感じずとも済む。
良かった良かった。
 やがて日が沈むにつれ、窓の外の景色は夕闇の色の
中にゆっくりと溶けていった。


次へ