山口さんの「さまよえるラム」−37

中東のお肉は食べられなかった紀行?


●女拳士あらわる

 ツアー6日目。今日は国境を越えて、日帰りでレバノンのバールベック遺跡観光だ。  

「国境越え」。響きは何となくかっこいいが、実際は「母を訪ねて3千里」や「名犬ジョリイ」のようにドラマチックなものではない。
見えるものといえば殺 風景な山奥の景色に風景な事務所、銃を持ってうろうろしている愛想のない兵士くらい。
土産物屋も無く、 こんな時こそ相手してほしい物売り軍団もいない。

命 が大切なら不審な行動は御法度なので、散策も思うようにできない。
ひたすら退屈な手続きである。  

シリアの国境では2、3台のバスが先に並んでおり、出国手続きに1時間ほどかかった。
その間、ツアーの 一行はバスを下りて、トイレに行ったり(汚なそうなので行かなかった)、唯一の露店のコーヒーを飲んだ り(砂糖をどばーっと入れられる)、タバコで一服したり、景色を眺めたりしたりして時間をつぶした。
他 国のツアーの乗客も、同じように、手持ち無沙汰そうにぶらぶらしている。  
そのうちわたしは健康的な暇つぶしを思いついた。

「とんちゃん、太極拳教えて」
「いーよ」

 実はとんちゃんは、3ヶ月間太極拳を習っていたことがあるのだ。

「こう、ボールを持ってるような感じで、滑らかに動くねん」
「うーん、とんちゃんみたいに決まらんなあ」 
「そりゃー、やっぱ腰が大事やで」

 堂に入ったその動きは、とても体験12回とは思えない。
さすがは元劇団員の元フラメンコダンサーで、最新の役は「はじかみ」の現役狂言師(!)だけはある。

「あら、太極拳やってるの? わたしにも教えて」
「わたしもー」

 バスの陰でひっそりと二人きりで行われていた講習会の参加者は、いつしか4、5人になっていた。
 
やがて熱中し始めた頃、出国手続きは終了した。
や れやれ、やっと出国できる。外をぶらついていた一行はほっとしながらバスに乗り込んだ。  

国境と国境の間の、5kmほどの緩衝地帯の道路はがら空きだった。丘の上には、国籍不明の羊飼いが、のんびり羊を追っている。  
5分も快調に走ると、そこはもうレバノンの国境。今度は入国手続きである。  

だが、事務所が見えた瞬間、誰もの顔が固まった。そこには10台ほどのバスが止まっていたのだ。
その 上、手続きはさっきよりさらにのんびりしている感じだ。  
さっきは3番目で1時間待ち。ここで3時間かかったら、観光する時間はあるのか? 
そもそも、今日中 にレバノンに入れるのか?  

初めは「バスの中で待ってて下さい」というアライさんの指示に従っていた一同だったが、案外早く終わ るかも・・・という淡い期待が時間とともに消え、他のバスの観光客が外でぶらぶらしているのを見て、一 人、また一人と外に出はじめた。
わたしもそれになら い、外で世間話などしていた。
 
その時、ぽんと肩をたたかれた。

「あなた、さっき太極拳やってたでしょ。教えて!」
「あーいやいや、あれは連れが師匠なんです。連れてきます」

 こうして、バスで休憩していたとんちゃんを引っぱり出し、再び太極拳教室が始まった。
レバノン国境の 風景としては、かなり異色である。
退屈している他の 旅行者たちがそれを見逃すはずはない。

「WOW!」

 いつの間にか大柄な外国人女性(見た目は何となくドイツ人、だがこの陽気さはアメリカ人?)も加わり、 少なからぬ見物人が取り巻いて笑いながら見守る中、太極拳教室はますます盛り上がった。
結局1時間あま りの入国手続きが終わるまで、一同は中国4千年の伝統芸にいそしんだのである。  
これ以降、とんちゃんは「太極拳のお師匠」としてすっかり有名人になったのであった。



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