山口さんの「さまよえるラム」−32

中東のお肉は食べられなかった紀行?


●どうなるI夫妻

  この日は朝から新婚のI夫妻の姿が無かった。
今朝 から奥さんがお腹をこわしてトイレから動けなくなってしまったのだ。  
やむを得ず、I夫妻をホテルに残して一行は出発したが、幸いにも明日はレバノンの日帰り訪問。
二人は 今日明日観光せずに休養をとり、明日長距離バスで移動して、ホテルで合流するという。

「・・・ことになりました」

 とアライさんは説明した。

「うわー・・・アラブ圏で体をこわして二人だけって、 心細そうですねえ」
「ええ、でも旦那さんが大丈夫だとおっしゃって」

 あー、あのサンダル履きの。趣味は麻雀の大学院生みたいな人だ。

「奥さん、症状はひどいんですか?」
「ええ、もう全然動けないらしいです」
「それはお気の毒に・・・。お医者さんは呼んだんですか?」
「いいえ。旦那さんがいらないって」

 おいおい本当に大丈夫? 
余裕たっぷりの旦那さん の態度に、かえって心配が募ってきた。
そりゃ、中東 へサンダルで来るような人にとっては、腹痛くらいは大したこと無いかも知れない。
しかし、あのおきれい な奥さんに、それを当てはめていいのか? 
まあ、信頼しているから夫婦、似ているから夫婦という見方もある。
だが、悪く転んだら成田離婚かも知 れない。

「へえー・・・大丈夫なんですかねえ」

 多くの意味がこもった疑問の一言だったが、その答えも一言だった。

「ええまあ、多分。旦那さんがお医者様ですから」

「えっ、イシャ!?」

 そうか! 奥さんの完璧に整った後ろへの引っ詰め髪・・・ナース!  
麻雀学生のイメージは消え、代わりに、運命的な出会い(※台詞1)から、20年後の小さな診療所での 一こま(※台詞2)までの各シーンに、恐いくらい二人の姿がぴたりと重なった。うむ、なかなかお似合いである。

「え、お医者様なの?」
「ああ、なら安心ねえ」

 ドクター付きで明日まで休めるなら大丈夫だろう。
サンダル青年の素性を知った途端、誰もがすっかり安心した。  
ところが午後、事態は急変した。

 ******************    今日は長いので、ここで一休み  ******************

 昼食後、長い間電話をかけていたアライさんが、バスで話し始めた。

「えーみなさん、さっき分かったんですが、明日レバ ノンに入国する際は団体ビザで入ります。で、この  団体ビザなんですが、申請した人全員が揃っていないと無効なんだそうです。 つまり、Iさん夫妻がいないとレバノンに入れないんですね。  事情を説明したんですが、特例は認められないということなんです」

 なにー!? 融通が効かなすぎる、お役所仕事、石頭! 二人誰かサクラを見つけて頭数を合わせたらど うかと思ったが、パスポートで顔まで照合するそうだ。さすが中東、ガードは堅い。

「今Iさんに問い合わせたんですが、奥さんはまだ、 とてもバスに乗れる状態ではないそうです。・・」

 そのバスは、シリアの一般人が使う民間バス。
きれ いでもなく、とても混んでいて座れないこともあるという。
勿論、都合良くトイレで止まってくれたりはしない。
そんな、元気な人でも辛そうなバスに、観光バスにすら乗れない病人が耐えられるはずがない。  
あーあ、ここまで来てレバノンに行けないのか。もう一生行けないだろうなあ。
明日はシリアの隠れ名所 観光かなあ。  
なりゆきまかせの予想は外れた。


「それで、Iさん夫婦には頑張って今日、タクシーで来ていただくことになりました。大体6時間くらいで着きますので、 夜9時頃ホテルに着く予定です。 皆様にはご心配おかけして申し訳ありません」

 タクシー6時間!? その間約300km。
ちなみ に東京〜名古屋が350kmだ。
日本ではいくらする だろう。10万円位? もっと??

「タクシー代、いくらくらいするんですかねえ?」
「ああ、それは交渉しておいたんですよ。120$です」
「へっ、120$!?」

 タクシー6時間が15000円!? 
東京〜津田沼 (30km・1時間弱)が13000円なのに! あ まりの安さに、頭がくらくらした。

「ちなみにバスは?」
「250SPです」

 ぶっ、500円!? 
驚きのあまり、∩型にのけぞ って頭を地面にぶつけ、目を回してアワを吹いた絵が浮かんだ。  
かくして、この日はI夫妻に関連してとにかく驚いてばかり。おかげ様で色々と勉強になった。  
物価について付け加えておくと、Tシャツは最低で100sp(200円)、36枚取りフィルムは40 0sp(?後で確かめます、とにかく高い)。
物価を 知れば知るほど、ラクダ+カフィーヤ300spが高いのか安いのか分からなくなった。

 それにしても、ロストバケージ、迷子、病人、小さな諍い、etc。次々と降りかかる災難。添乗員泣かせのツアーだ。

「アライさん、色々大変ですねえ。大丈夫ですか?」

 何度か声をかけたが、答えはいつも「ええ、何とか」という気丈なもの。だが、この時だけは違った。

「いやあもう、ちょっとくじけそうです」

 泣き笑いの表情が、とほほほほほほほ・・・という心中の嘆きを雄弁に物語っていた。  
か、かわいそうに。心配をかけない客にならねば。わたしは誓いを新たにした。  
だが、この嘆きが運の転機を呼んだ。

この夜、I夫 妻は無事到着し、大阪のおばちゃんの荷物も見つかったのである。
荷物を受け取りに行く大阪のおばちゃん とウサムさんを送り出して部屋に帰る時のアライさん の顔は、秋空のように晴れ晴れしていて、昼間とはまるで別人のようだった。

−−−−−−−−−−−−− ※台詞1  「メス」「はい」「汗」「はい」 −−−ふと絡み合う二人の視線。     
その瞬間、二人は恋に落ちた−−−

※台詞2
「赤ヒゲ先生、奥さん、今日はダイコンを持って来た  ぁでよぉ」
「あらあら、すみませんいつも。よろしいのに」
「そうだよトメ婆さん。無理すっと、腰また痛くする  よ」  
ーー−長年連れ添った二人の考えは一緒だった。     よし、今夜はふろふき大根だ−−−

※台詞2
「赤ヒゲ先生、奥さん、今日はダイコンを持って来た  ぁでよぉ」
「あらあら、すみませんいつも。よろしいのに」
「そうだよトメ婆さん。無理すっと、腰また痛くする  よ」

 ーー−長年連れ添った二人の考えは一緒だった。     よし、今夜はふろふき大根だ−−−



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