山口さんの「さまよえるラム」−19

中東のお肉は食べられなかった紀行?


●ジョアンナ

 夕食前。ホテルはユーフラテス川沿いに建っていたので、川縁(べり)に散歩に出かけた。  川縁は、頭くらいの大石に覆われた急な坂。下りていくのは少々苦労した。屋根付ボートの残骸のような ものが、川風に揺られている。

ちなみにこの川を下って行くとバクダット付近でチグリス川と合流してペルシャ湾へ注いでいます。
 川縁にしゃがんで間近に見た川は、飲めそうなくらい澄んでいた。ゆったりした流れに逆らって、泳いで いる魚が何匹も見える。大きいものは20cm位。時々飛び跳ねては、黄昏に染まった水面に小さなしぶき をあげた。川の向こうは農耕地で、何かの機械が、静かなうなり声をあげている。

「えーとこやなー」
「そーやなー」

 とんちゃんとわたしは、1時間近く、その悠久そのものの眺めに浸っていた。

 足が痺れてきたので、ホテル周辺の散策開始。花壇やシーズン前のプールを一周してきたところで、警備 員氏にばったり出くわした。 彼は、英語を殆ど喋ることができないらしく、しき りと写真を撮る身振りをした。 何だ? 撮ってほしいということかなあ?  ところがカメラを向けると、首を横に振る。しばらく頭を捻っていたが、朝聞いた話をふと思い 出した。

「今日のホテル、隣が軍事施設だから、写真を撮ったらフィルム没収らしいですよ。さっきも、没収された 人がいたみたい」

 つまり彼は「あっちの写真を撮ったか? 撮ってたら没収」と言いたかったらしい。

「NO NO」

 撮っていなかったので、即座に言った。まあ、フィルムを没収されてはかなわないので、撮っていても答 えは同じだったろうが。 するとそこへ、一匹の猫がやってきた。全体は暗い 灰色で、鼻筋部分だけが斜めに肌色。良く言えば現代アート的、悪く言えばヤクザ風。少々ドスの効いた顔 立ちだ。

 ところが顔に反し、性格は人懐こかった。しゃがんで手を伸ばすと、足の周りをぐるぐる回りながら体を こすりつけてくる。

「かわいいですねえ。あなたの猫ですか?」 警備員氏は、にっこりして頷いた。

「ふーん。オスですか? メスですか?」
 彼は再び「うんうん」と頷いた。
「オスですか?」
 うんうん。
「メスですか?」

 うんうん。わたしは質問をやめた。 すると彼は言った。

「ジョアンナ」

 それが猫の名前? ということはメスか。 続けて彼は自分の名前も言ったが、それは難しくて 覚えられなかった。申し訳ない。人間様らしく、猫より難しい名前だったことは確かだ。

 猫を相手に遊んでいると、そこに同じツアーのおじさんが現れた。白髪で洒落た口ひげを生やした、背の 高い人だ。

「おうおう、かわいいなあ」

 そう言いながら、猫の額をぐりぐりと押した。行動は少々いけずっぽい。

「ほら、猫は額を押されるのが好きなんだよ。家でも飼ってるから、ようわかる。首をなでられるより、こ っちを喜ぶんだよ」
「へー、そうなんですか?」
 確かにジョアンナは目を細め、気持よさそう。額を突き出して来さえしている。この新説に感銘を受け、 以後はひたすらジョアンナの額を圧迫することに費やした。

「それにしても人なつこいですねえ」
「ああそれはね、ここがこの猫の場所なんだよ。猫には自分の場所があって、そこにいたがるもんだからねえ」
「へええー」
 これが、同姓のよしみでツアー中は「父」「子」と呼び合った、海軍出身ジェントルマン・Yさんとの出 会いだった。



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