山口さんの「さまよえるラム」−2

中東のお肉は食べられなかった紀行?


●13日の木曜日

 相談の末、昨年モロッコ旅行で使ったS社に、以下の内容で申し込むことになった。

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・行き先:シリア・ヨルダン・レバノン12日の旅
・メンバー:4名(SMコンビ、とんちゃん、わたし)※とんちゃんのみ、関空発
・出発日時:4月14日(金)
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   ところで、モロッコといって真っ先に思い出すのは、悲惨・惨憺・サタン添乗員のサンタ氏。S社の印象は、 思い出しただけで胃けいれんをひきおこしそうな最低レベルだったが、わたしは寛大な心で受け入れた。寛 大ではない財布が、S社の最低レベルの価格しか受け入れなかったからである。

 だが、出発までの日々は、決して心安らかなものではなかった。 最小催行人数は15人。申し込んだ時点での人数は12人。あとたった3人の申し込みが、なかなか無か ったのだ。 状況に変化がないまま一週間も経つとカッカしてくるのは、心配性のA型の血の性である。結果、昼食前、 S社に電話を入れて人数を確認するのが、出発決定までの日課となった。

 わたしはケータイ無携帯のレトロ人間だ。最近は殆ど使われることもなくなった、会社の一階ホールの薄 暗い一角にぽつんと置かれた公衆電話の前では、連日おごそかな儀式が執り行われた。  まず祈りと期待の念をカードに込める。受話器を上げる。カードを差す。ゆっくり慎重に番号を押す。 だが、そんな念じは電話の向こうにはまるで通じず、対応は素っ気なかった。昼食時間の電話なので、まあ それは仕方あるまい。

「14日の集まり具合はいかがですか?」
「ええと、今9名ですね」
「えっ? 昨日は10人だったんですけど、また減ったんですか?」
「ええ、そうみたいですねえ」
「14日で申し込んでるんですけど、催行の見込みはいかがでしょう」
うーん、何とも言えませんけど、このままだと危ないですねえ。13日の木曜日は催行が決まっていますので、 こちらに変更されたほうがよろしいと思いますよ」
「13日は何人ですか?」
「今24人です。成田発が残り6席、関空発は10席です」
「うーむ、でも、なるべく少ない人数の日のほうがいいんですが」
「ああそうですか。じゃあ14日にしておきますか。でも、後で変更しようとしても、 13日の残席が無くなっていた場合はお受けできませんので、その点はご了承下さい」
「13日は埋まりそうですか?」
「何とも言えませんねえ。でも、問い合わせがあった場合は“13日が催行決定している”と言いますの で、やっぱり13日に申し込まれる方が多くなりますね。どうしても行きたいなら、今のうちに13日 に変更されたほうがいいですよ」

 だが、わたしはあくまでも、14日出発での少人数催行にこだわった。集合、移動、トイレ、説明を聞く 時、44人のモロッコツアーのあらゆ場面で身にしみて学んだ教訓、それは「人数は少ないに限る」という ことだったからだ。

「でも、こういうことはないですか?うちのグループが13日に変更した場合、14日は9人から5人になりますよね。 すると、新しく申し込みをする人は、14日は催行人数まであと10人もいては集まらないと思い、13日に申し込んで、 13日は人数がますます増える。でも、うちのグループが14日にしておいた場合、新しく申し込みをする人は、14日は催行人数まで あと6人なら可能性があると思い、14日に申し込み、最後には14日も催行人数に達して、15人位で催行する」
「そうですね、それはありえますねえ」

 うーむ、やはり。13日に変更しようかと大きく傾いていた気持ちが、また14日に振り戻された。安全 的大人数狙いか、冒険的少人数狙いか、苦悩みは続いた。そもそも、旅行社は、お客を集めて催行回数を増 やしたくないのだろうか。

「会社としては、催行回数は少ないほうがいいんですか?」
「いえ、うちとしては、13日も14日も出したいんですけどね」
「そうなんですか。じゃあ、問い合わせが来た時に、“14日はあと6人で、もうちょいです”と言って、 14日を勧めてもらうことはできないですかねえ?」
「それはできませんね」

なんでやねん。それでもサービス業か?わたしは心中で、ハリセン片手に突っ込んだ。

「うーむむ・・・。じゃあ、成田発が残席3になったら、自動的にうちのグループを13日に変更してもらえる よう、お願いできませんか?」
「それもできませんねえ。ま、こまめに問い合わせてもらって、様子を見て考えてください」
「はあ・・・分かりました。ありがとうございました。では」

 無理な頼みとは分かっていたが、それにしても対応が冷たいなあ。受話器を置きながら、心中ではハリセ ンが往復で炸裂していた。こうして、胃壁が徐々に薄くなる日々は続いた。切羽詰って、サクラの申し込みをするという作戦まで練 ったほどである(実行はしなかったが)。

 変更無料期限の3月13日、14日が7名だと聞くに及び、粘りに粘ったわたしも終に折れた。 出発日は4月13日木曜日に決まった。人数は、成田発20名、関空発14名、計34名。44名に比べ れば大分マシだろう。決まった後は、開き直りも早かった。
 ちなみに、14日は結局不催行になったそうだ。

 こうして、2年間待ち続けた催行が決まった。年休もとった。後は出発の日を待つばかりだ。  だが、出発が近づくにつれて膨らんできたのは、楽しさよりも不安だった。レバノン情勢ではない。成田 で待ちかまえているのがサンタ氏だったら、ということである。同じ添乗員に当たる確率は、阪神が5年連 続日本一になるより低いだろうと何度思っても、

「程良く半年間が空いたし・・・」
「アラブ圏は、慣れた人が来るんでは・・・」


 消しても消しても暗雲のようにサンタ氏の顔が浮かんだ。 だが、忘れもしない(?)4月10日月曜日午後1 1時半。暗雲は去った。

「夜分恐れ入ります。明後日からの添乗員のAと申しますが」

 用意はいいかという確認の電話が、丁寧な口振りの若い女性からかかってきたのだ。嬉しさのあまり、声 は「特別なお客様用」になっていた。子機電話だったら、グラン・ジュテで部屋中を踊り回っていたことだ ろう。
 出発までの残り2日、わたしは本当に幸せな気持で過ごしたのである。



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