田崎さんのパリ紀行−12

1999-Nov

迷子の迷子の・・・


11撃Q1日(日) とりあえず、晴れ
パリ第三日目の朝は久方ぶりに晴れ間の見える天気となった。だがそうはいっても寒いことに変わりは なかった。何しろ、食堂への通り道である外廊下を通るときの体感温度が、日に日に下がる一方なのだ。 食堂の席待ちの列が入り口の外(出入り口は外廊下に面しているので、外に放り出されているのと同じ) までつながっている時など、この寒さが応えた。

しかも今日の行き先は、パリより気温が1〜2度低いというベルサイユ。 迷子の荷物探索のため、もはや日課となったツアーデスク訪問の際に、デスクの人にベルサイユの状況 を尋ねると、

「ベルサイユは郊外だから寒いんですよね。それにに今日は雪まで降ったらしいですよ」

などとおっしゃる。雪・・・まだ、11撃ネんですけど・・・と呆然とするわたしは、雪を見ることの少ない(な いとは言わないが)九州人。聞けば列車も遅れが出るかもしれないとのこと。 ヤで行って大丈夫なのか? v案中の二人にツアーデスクの人はすかさず半日バスツアーを勧めてきた。

「バスですから遅れもありませんし、日本語のガイドもつきますよ」
「ベルサイユには半日で、それからパリへ戻るんですか」
「ええ、昼食は付きませんのでお昼にはパリへ戻りますから、午後はお好きに市内観光ができますよ」
「で、おいくらですか?」
「400フランです」

なに?! 食魔ネしの半日観光が8000円?!暴利だ。

「あ、結構です」

半日ツアーは即座に却下され、節約家(単に貧乏とも云う)の一行は、当初の予定どおり列車でベルサ イユへ行くことにした。それにしても半日8000円をお高いとは思わない のか、ゥ分で行くのが面倒なのか、ツアーデスクの前のロビーはベルサイユツアーに参加する日本人で いっぱいになっていた。(ボロい商売だなぁ)金よりも手間を取ったわれわれは、デスクで駅まで の道を教えてもらい(ホテルから一直線だった)、ついでに公営の美術館・舶ィ館等がフリーパスにな る一日入場券(カルトミュゼと言えば通じる。一日券の他に三日間・1週間有効のものがあった・・・ はず)60F(多分)也も購入して、これでベルサイユ行きの準備は括゙! とばかりにデスクを後にする。

ちなみに当初の目的である迷子の荷物探索は今回もまた空振りに終わった。帰国の前に友人Oは荷物と 再会を果たせるのか? ロンドン−大阪−福岡と、北半球をまたにかけた迷子探しには決着がつくのか? 「明日には帰国するんだぞーーっ」とむなしい叫びを上げつつ、もはやあきらめムードの友人Oととも に部屋へ戻ったのだった。



荷物ちゃん


部屋へ戻って度ってみると、なにやらお隣の部屋が慌ただしい。先に友人Oの母上と妹さんは部屋へ戻 っていたのだが、妹さんの方の調子が良くないらしい。旅の行程も4日目で疲れが出たのだろう。 今日の行き先は雪も降るベルサイユだ。ただでさえ寒い中、出掛ければ症状が悪化するのは目に見えて いる。無理は禁物。ということで、一昨日の母に引き続き、今日は妹さんが留守番役となってしまった。

それに引き換え、l六梺元気な友人Oとわたし・・・体力だけが自慢な二人なのだった。 買っていたカルトミュゼは、妹さんにとってはただの記念品になってしまった。ただ、テレフォンカー ド大のミラーコートに、おそらくはモナリザとおぼしき目のアップが図案として使用されているこの カルトミュゼ、記念品にするにはちょっと不気味かもしれない。
(それに持っていると、行けなかった悔しさが蘇るような気もするが・・・妹さんがちゃんとこのカル トミュゼを持ち帰ったかどうかは不明である。)

そんなこんなで薬を探したりお出かけの準備をしていると、わたしたちの部屋の電話が鳴った。 慌てて取りにいくと、英語で

「大久保さんですか?」

と聞かれたので、フロントからだろうと思ったわたしは、まあ軽い気揩ソで「イエス」と答えた。 vえばそれが悪かった。電話の女性は

「こちらはエールフランスです。Oさんのロストバゲージの件で電話をしてます。」

とおっしゃるではないか。ちょーっと、待て!わたし、ホントはOじゃないんですっと言う間もな く、立て板に水のごとく話はじめるエールフランスのおねーさん。お願いだから待ってくれぇ。

ゥ慢じゃないが英語教育を受けた10年間(正確に言えば8年間)の成績は、Rがあれば即ぶつかるほ どの超低空飛行。わたしの英語力は沿ネ下なのだ。そんなにべらべらしゃべられても、わからんというのに。 黙りこくるわたしに不審を抱いたのか、エールフランスのおねーさんは、

「英語がだめなのか? フランス語はオーケーか?」

と聞いてくる。フランス語なんてしゃべれらた日にはパニックになること、必である。

「英語は少し。日本語がいいです」

と必で答えるが、日本語はダメとおっしゃる。(そりゃ、まあ、そうだろう) そもそも、わたしの荷物ではないロストバゲージのことを聞かれても、応答できるわけもない。

「ジャスト・モーメント・プリーズ!」

それだけ言って受話器を置くと、わたしは速攻で友人Oのいる隣の部屋へ駆け込んだ。

「電話っ、エールフランスから。荷物が見つかったみたいなこと言ってるから、代わって!」
「見つかったの? ほんとに? 荷物はいつ来るのかな」
「そりゃ、聞いてみないとわかんないってば。だから電話、代わってよ」
「えー、それって日本語でいいかな」
「日本語はダメだって。英語かフランス語」
「えっ! ダメだよ。わたし英語しゃべれないもん。Rqちゃん、代わりにしゃべってよ」

それが無理だから代われと言っておるのだ。

「わたしだってイヤだよ」
「絶対、ダメ! しゃべれないっ」

友人Oは頑なだった。結局、わたしの方が押し切られ泣く泣く再び電話に出る。そして、言った。

「ジャパニーズ・オンリー・プリーズ」

相閧ヘわたしのことを友人Oだと思ってるが、本人ではないんだから、話なんか出来るわけないじゃないか。 というわけで、わたしはすっかり開き直ってしまったのだった。英語で話しかけるおねーさんに上のせりふを繰り返 すわたし、という埒のあかない問答に根を上げたのは、エールフランスのおねーさんだった。

「ちょっと待ってなさい」

と言って電話は切れてしまった。即座に掛かってくる気配が無かったのでとりあえず、みんなのいる隣の部屋へ戻る。

「どうだった?」
「ちょっと待って、って電話切られた。また掛かってくると思うよ」
「荷物、どうなったのかなぁ」
「さあねぇ。わたしだって分かんないよ。今度はOちゃんが出てよね」
「えー、イヤだよぉ」

そこへ再び電話のベルが鳴った。一瞬顔を見合わせるわたしと友人O。そして受話器を取ったのは、やはり、わたしだった。

「ハロー」
「Oさまですか? こちら、フロントですが」

聞こえてきたのは、紛れもない日本語。根を上げたエールフランスのおねーさんはフロントを通して話 をすることに決めたようだった。

「Oさまのお荷物が見つかったようなので確認をしたいのですが、よろしいでしょうか」
「あの、ちょっとお待ち下さい」

わたしは三度、隣の部屋へ。

「おーい、Oちゃん電話だよ。代わって」
「え、英語?」
「大丈夫、日本語だから」

と答えるとさっきまでの逃げ腰な態度とは反対にさっさと電話を取りに行く。その背後にわたしは恨みがましい声を掛けた。

「この借りは、きっちり返してもらうぞぉ」

で、結局、ロストバゲージになっていた荷物がどこにあったかというと、何と関空に置き汲閧ノされて いたのだった。大丈夫です、と言い張った関空職員の言葉は大嘘で、荷物はヒースローの乗り換えどこ ろか、出国さえもしていなかったのである。

そして丸二日遅れでパリへ着いた荷物は、今日の午後ホテルへ届けられるとのことだった。 これでようやく憂い無く旅行を満喫できる、ところだが、我々は明日には帰る身。荷物が見つかった喜 びとともに、そこには一抹の虚しさがよぎったのだった。


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